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令和6年度 夏季休業明け集会 校長挨拶(骨子)
夏休み中にはパリオリンピックがありましたが、最近のオリンピックはいろいろ考えさせられることも多いなと感じました。選手たちが背負っている、あるいは背負わされているものの大きさを考えた時、切なくなることもあります。男女のマラソンのように、入賞した、パーソナルベストを出したというので、選手も周囲もみんな大喜びというものもあれば、柔道のように負けただけでこの世の終わりのようになる競技もあります。柔道団体が決勝でフランスに負けた時もごちゃごちゃ言う人がいたようですが、フランス発祥のフェンシングで逆に日本が勝ったのだから「あいこ」だと思いますし、国技だのお家芸だのと言っている競技で外国人選手がたくさん勝つようになるということは、その競技が世界に広がっているということの何よりの証拠で、むしろめでたいことでもあるのではないかとも思います。選手や審判に対する誹謗中傷が問題になった大会でもあります。言いたくなる気持ちもわからないではありませんが、そんなのは家とか仲間内だけで言っていろという感じです。匿名なのをいいことにSNSで発信するなと思います。選手たちのこれまでの尋常でない努力や重荷に耐えている精神力を考えた時、リスペクトが足りなすぎますし、選手にはのびのびプレーさせてやれよというのが、私の思いです。
さて、夏季休業前集会で、8月は戦争と平和の問題について向き合ういい機会ながら、今年はパリオリンピックで埋没するだろうと言いましたが、やはりそうだったと感じました。テレビや新聞では一応いろいろ取り上げられてはいましたが、あまり話題にはなりませんでした。その分、発言者のトーンがいつになく鋭かったように思います。アメリカの「原子力科学者会報」が毎年発表している、人類滅亡までの残り時間を象徴的に示す「終末時計」というのがありますが、今年発表された残り時間は、2年続けて過去最短の90秒でした。人類はそれだけ滅亡の危機にあると科学者たちは訴えているわけです。そういう状況ということもあって、戦争はもはや必至だと言ったり、それに備えようと勇ましいことを言う人が増えています。備えをすることにはいささかの異論もありませんが、こういうことを声高にいう人たちの多くは戦争を「美しいストーリー」で語りがちです。しかし、現実は違うのではないでしょうか。海外から送られてくる映像を見ると、とても抑制的だったり、何の忖度か報じられない部分があったりはしますが、それでもとても無惨であることがわかります。広島の原爆死没者慰霊式の広島県知事の挨拶がネット上で大バズリしました。「人類はずっと戦争をしている。それが現実だ。現実主義者はだから『力には力を』という。しかしもうひとつの現実は意図的に無視されている。人類が発明して使われなかった武器はないということを。私たちは真の現実主義者にならなくてはならない。核廃絶は遠くに掲げる理想ではない。今必死に取り組まなければならない、人類存続に関わる差し迫った現実の問題だ。」という趣旨でした。広島市長の平和宣言も激烈でした。いずれもネット上に出ているのでぜひ検索して全文を読んでほしいと思います。以前沖縄に行き、沖縄戦について学ばせていただいた際に言われた言葉があります。「先生、『多くの尊い犠牲の上に今日の平和がある』という言葉をどう思いますか? その通りだと思っていませんか。先生は多くの犠牲を再び出さないために平和を訴えようとお考えですよね。でも、世の中にはこれを『平和であるためには尊い犠牲が必要なのだ』と読みかえる人が結構いるのですよ。でも私たちはそうは思いません。まがりなりにもこの国の平和が保たれてきたのだとすれば、それは、戦争の惨禍が伝えられ、二度とあんなことは嫌だと多くの人が思ってきたからなのです。先生、生徒さんたちに「現実」を知る、「現実」を見ることの大切さを伝え続けてください。」と。美しいストーリーは時に危ういです。 ユネスコ、すなわち国連教育科学文化機関の憲章の前文には、「戦争は人の心の中で生まれるものであって、人の心の中に平和の砦を築かなければならない」とあります。「終末時計」が危機を告げ知らせている今、ぜひ戦争を「知る」ことから始めてほしいと思います。
最後にもうひとつ。「南海トラフ巨大地震注意」が出た時、私はよりによって本州の太平洋岸にいました。結構緊張しました。今年も豪雨災害は頻発しています。避難訓練の時にも言いましたが、災害はいつどこで起こるかわかりません。日本列島は災害多発の時期に入っているようです。災害に対するアンテナを高くしてください。