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令和6年度 冬季休業前集会 校長挨拶(骨子)

2024年もまもなく暮れようとしています。わが国では新年を迎えることを「年が改まる」と言ったります。新しくなる、リセットする、リスタートするという感じでしょうか。この考え方には賛否両論あるかもしれませんが、自分はいい感覚ではないかなと思っています。人は年のはじめに、今年はこういう年でありたい、こういう自分でありたいと願い祈ります。しかし、1年が過ぎてみれば、うまくいったこと、幸せなこともあれば、失敗したこと、挫折したり悔いを残したこと、ろくでもないこともあったかと思います。いろいろあったけれども、いいことはそのままに、そうでないことは百八つの鐘とともに押し流して、また新たな決意で新しい年をスタートさせる。新しい年をお互いそのようにスタートさせたいものです。

さて、今年は、「違和感」に背を向けるなという話で締めくくりたいと思います。
「違和感」とは何か変だと感じるその感覚のことです。体の調子が何だかおかしいと感じたり、使っている家電製品やパソコン、スマートホンなどが、異音がしたり動きが悪かったりして気になるなと思うことは往々にしてあると思います。こうした「違和感」に対して、正常性バイアスという言葉がありますが、人には嫌なことから目を背けたい傾向があって、「まあいいや」とか「たぶん大丈夫」とかにしがちです。でも結局それは大概病気や怪我、故障につながっていきます。
周囲の人や社会に対してちょっとした「違和感」を感じることはないでしょうか。これはその先にある「ろくでもないこと」につながっているかもしれません。

私が感じた「違和感」を2つ3つ話してみたいと思います。
四半世紀以上前の体験と最近の体験がオーバーラップするので、まずはそれを話します。

これは四半世紀以上前のことです。私が以前勤務していた学校は地下鉄の駅からすぐ、300メートルあるかないか、本校でいうと玄関からテニスコートのあたりくらいの距離にありました。歩道は必ずしも広くはなく、両端を歩けばすれ違えるものの、真ん中を歩かれるとよけなくてはなりませんでした。まして雨の日で傘をさしていると、どちらかが高く掲げるなり傾けるなりしないとすれ違えません。積雪のある日は、除雪されるまではどちらかが積もった雪の中に入ってやり過ごさないとすれ違えません。ある時、自分ばかりが道を譲っていないか、傘を高く掲げていないかと感じ始めました。そこで私は実験してみることにしました。地下鉄の駅から学校まで一度もよけないで歩いてみるという馬鹿げた実験です。さすがに歩道の真ん中は歩きませんでしたが、端でもない中途半端なところを歩いてみたのです。結果は驚くべきものでした。この短い距離で4回も衝突したのです。慌てて避けた人を除いてもです。やはり私の気のせいではありませんでした。衝突した相手はごく普通の善良そうな勤め人ばかりで、想定外の出来事が起こったというような驚いた表情を浮かべていたのが共通していました。この実験のあとまもなく新聞に、社会人類学者の中根千枝先生(『タテ社会の人間関係』という著書が大ベストセラーになった方です)の、「社会全体に対人知覚障害が起きている」というコラムが載り、なるほどと膝を打つとともに、これからの社会はどうなっていくのだろうと不安にもなりました。先生は、自分の身内や友人、職場の同僚など直接知っている人には礼儀正しい配慮ある振る舞いをする人が、全く知らない人に対してはその存在すら認知していないかのような行動をとるケースが増えていると指摘されていたのです。衝突した相手は縁もゆかりもない人です。つまり彼らの目には私は「風景」としてしか映っていなかったということなのです。風景には配慮しませんよね。最近の新聞にも、1995年の東京の地下鉄サリン事件の時、倒れて苦しむ人々や必死に対応にあたってる駅員の横を、何事もないかのように勤めに急ぐ人々が次々と通り過ぎていった光景に異様なものを感じたというコラムが掲載されていました。
それから四半世紀、最近は運転していての「違和感」をしばしば感じます。急な割り込みが増えた気がします。混み合ったスーパーの駐車場などで、駐車スペースを探す車が出ていく車を待たずに入ってきて身動きがつかなくなる、先行する車が駐車スペースに入れるほんの短い時間を待てずに隙間を強引に通り抜ける、こういったケースが増えているように思います。こうした行為は高齢者にも多いので、認知機能の低下という高齢化社会特有の問題かなと思う一方、また「社会的対人知覚障害」が強まってるのか、人と人とのつながりに歪みが生じてきているのかと心配になります。

話は変わりますが、東京オリンピック招致の頃によく言われた「クールジャパン」という言葉にも、私は「違和感」を感じていました。外国人から日本文化は「クール」だと言われるとそれは嬉しいものです。しかし自分で言うのはいただけません。誉め言葉は他人に言ってもらうもので、自分で言うなと思います。自分で言うのは見方によっては「ナルシシズム」です。もしかすると、「たくさんの外国の方をお迎えするので、クールな日本であろうね」というスローガンから始まったのかもしれませんが、やがて一部の政治家や経済人、それに追随する学者やマスコミ人がやたらと口にするようになりました。さらに嫌だったのは、行間に「どこどこの国と比べてわが国は」みたいな比較のにおいがプンプンしたことでした。

最近の東京都知事選、兵庫県知事選、衆院選などにも「違和感」を感じています。これらの選挙においてはSNSが絶大な力を発揮したと言われています。SNSが普及したころから「ポスト トゥルース」、人は真実ではなく信じたいものを信じるようになっているということが指摘されるようになりました。それは、自分が興味を持って検索したり閲覧した内容に類することがどんどん情報として提供され、それが社会の主流、正しいことと信じ込んでしまうエコーチェンバー現象が進行している影響だとされています。既存メディアが正しいとは私は全く思っていませんし、真実はネット上にあるという主張にも組みしません。公の場で選挙結果がどうのこうのと言うつもりも、それぞれの候補者がどうのこうのと言うつもりもありません。ただ「違和感」を感じたのはそこに「熱狂」が起きたことです。「熱狂」は一歩間違うと人々を危ういところに連れていきます。ヒトラーとナチスドイツは力づくでのし上がったわけではありません。当時世界で最も民主的といわれた憲法下での選挙においてドイツ国民の「熱狂」の中、世に出たのです。

「違和感」を感じたら、たぶんそれは当たっているのだと思います。「違和感」には盲目にならない方がよいと思います。積極的に対抗したり発言するのは怖くても、「消極的不同意」「消極的不関与」でいいのだと思います。そういう人が多ければ世の中は正常を保つのです。

まもなく新年。来る年がみなさんそれぞれに幸せな年になりますことをお祈りして、冬季休業前集会のご挨拶とさせていただきます。