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令和6年度修了式 校長挨拶(骨子)

令和6年度が終わろうとしています。いいことも、苦労したこと失敗したこともいろいろあった1年間だったかと思います。昨日大相撲春場所が終わりましたが、相撲には星取表というのがあり、白星黒星並んでいます。みなさんの1年間も白星の日もあれば黒星の日もあったかと思います。1年を通して白星先行であれば、まずまずいい1年だったのではなかったかと思います。
これまで何度も言っていますが、学期の終わり、年の終わり、年度の終わりといった、いわゆる「節目」は、自分のありようを振り返る良い機会です。マラソンも、キロ標示を目にするとエンジンがかかったりするものです。春休みのうちに次年度に向けての決意といったものを固めてもらいたいなと願っています。

さて、冬季休業前集会で「違和感」の話をしました。その続きではないですが、最近「何だかなあ」と思ったことを少しだけお話しします。

ネットニュースなどを見ていて、例えばテレビドラマや映画の感想を集めたサイトなどの中に、ずいぶん「伏線回収」という言葉が目立つようになりました。芝居やドラマ、映画などの脚本における最も効果的なテクニックのひとつが、前半の早いところで伏線を仕込んでおいて、最後にすべてがつながるようにすること、いわゆる「伏線回収」です。そのことによって人は「そうだったのか」と納得し満足もします。「伏線回収」が稚拙だといろいろ批判されるわけです。本屋大賞というのがあります。全国の書店員の投票によって売れそうな本が選ばれるのですが、賞をとったりノミネートされたりした本はドラマ化や映画化されることがしばしばあります。読んでみるとしっかりと「伏線回収」がなされているものが多く、最初からそれを想定しているのではないか、システム化されているのではないかと感じることもしばしばあります。
「伏線回収」は、ドラマや映画においては大切な手法ですが、実際の世の中の出来事は複雑に入り組み、「伏線回収」のようにシンプルに事は進みません。人の心理や行動は複雑で、見た通り、発した言葉の通りとは限りません。立場や関係性によって見せる顔も様々に変わります。しかし、それらをシンプルに見せる手法が広がりつつあるように思います。「陰謀論」の台頭はその典型的なものです。アメリカのトランプ政権もしばしば「陰謀論」で世論を誘導します。日本でも、先の兵庫県知事選挙において、ネット上に「陰謀論」が溢れかえりました。「ネットを見て腑に落ちた」という声がずいぶん聞こえてきました。自分が芳しくない状況に置かれた時、シンプルな「原因」や「犯人」が示されると、人はそれに引きずられるものです。これはかつてナチスドイツがとった手法ですし、歴史的にも、また世界のあちこちで繰り返し繰り返し使われる手法でもあります。それを考えると「何だかなあ」と思うわけです。
映画やドラマの中には「予定調和」が際立つ作品もあります。とてもわかりやすい「伏線」ゆえに、見始めたところでもう展開や結末が見えている、いろいろな展開をしつつも最後には想定通りの結末にたどりつき、思わず「涙腺崩壊」となるといった作品です。世の中そうそう「予定調和」とはいきません。いかないことが現実だとわかっているからこそ、人は「予定調和」という安心を求めるのかもしれません。それで一時癒され、また現実に立ち向かっていくならよいのですが、不満を抱き始めると、おかしな動きにからめとられてしまいます。

人は群れたがります。これは身を守るための本能的な行動だろうと思います。群れは独特の空気を醸し出し、それが他人への圧力となることも多々あります。でも、その群れにいる人はみな群れたいのでしょうか? 本当は苦しい人もいるのではないでしょうか?
もう死語になったかもしれませんが、ひと頃「リア充」という言葉がずいぶん使われました。ネット上に、旅行や趣味、参加あるいは主催したイベント、食べた美味しい食事、ライフワーク、幅広い人間関係(人脈)などいろいろ載せている人がいます。それを見ていると自分の日常がいかにも貧弱でつまらなくて、ひいては自分という人間自体もつまらなく感じられて悲しくなることがあります。自分の世界や活動を広げる目的であえて載せている人もいますが、時々「リア充」を誇る投稿に「必死の承認欲求」を感じることもあります。

人の心や行動は複雑です。世の中も複雑です。表面に目を奪われず、シンプルさにからめとられず、他者をよく観察してみましょう。他者の心の裡を、発する言葉や日々の行動に隠された心のひだを想像してみましょう。それがもしかすると自分を救うことにもつながるかもしれません。

最後に再度申し上げますが、年度の終わりです。「節目」です。自分のありようを振り返る良い機会です。次年度自分はどのような歩みを進めていくのか、一定の決意をもって4月に臨んでください。