BLOG
令和7年度 前期始業式 校長挨拶(骨子)
新年度が始まりました。新たな学年、新たな年度を自分なりの思いや決意を抱いてスタートしてもらえたら嬉しいです。
昨年、避難訓練や学校行事、入学式・卒業式などを除いて、みなさんの前に立ってお話させていただいたのは都合8回です。いろいろな話をさせていただきました。
その一部を挙げると、
・一人称で考える姿勢を持とう。
・「~でいい」ではなくて「~がいい」という生き方をしよう。
・人としての「矜持」(プライド)を持とう。
・「心映え」の美しい人であってほしい(誠実であれ)。
・失敗は若者の特権なのだから失敗を恐れず行動しよう。
・自分が知らないことを知っている人、自分ができないことができる人は、みな自分にとっての「先生」なのだから、他者へのリスペクトの気持ちを持とう。
といった「生き様」に関するお話が多かったような気がします。戦争と平和の話もしました。「戦争はどのように美しい言葉で飾ったとしてもあってはならないものだ。なぜならば、戦争は殺してよい命とそうではない命、人の命の重さに軽重をつけるものだからだ。殺してよい命というものがあってよいものか。平和を維持する最大の方法は、戦争になったらどういうことが起こるのか、そのリアルな現実を知り、伝えることだ。」という話をさせてもらいました。最近では世の中に感じる「違和感」の話をし、その「違和感」はおそらく当たっている。「違和感」を見過ごさない方がよいと語りました。
昔から「校長の話などあまり覚えていない」というのが世の常かと思います。自分もまさにそうでしたから、人に文句は言えません。しかし、今の世の中の状況を見て、一種の危機感や焦燥感に駆られて話していることもたくさんあります。忘却の彼方に押し流すにしても、いったんはメッセージを受け取ってもらえたら嬉しいなと思っています。
さて、今、主体性が求められる時代だというのは耳にたこができるくらい聞いている話かと思います。私も話しているし、学年主任の先生も担任の先生も教進部長の先生も、外部から来る講師の先生も、みんな言うと思います。ではみんなが言う「主体性」とは何なのでしょう。意見は人それぞれだと思います。私は「自己判断できる力」だと思っています。周りがどうとか、「みんな」がどうとか、ネット上でどうとか、権威のある人がどうとかではなく、「自分はどう考えるのか」とベクトルを自分に向けることのできる力だと思います。判断するためには多くの知識を得ることが、学ぶことが大切です。世の中は明らかにおかしくなっていて、「情報」がいいようにコントロールされていると感じています。流されないためにも「学んで」ほしいと思います。特定個人に熱狂したり、逆に攻撃したりという空気があります。「誰が」言ったかではなく「何を」言ったかで判断してほしいと思います。正しいことは誰が言っても正しく、誤ったことは誰が言っても誤りなのです。
みなさんにこうであってほしいということをふたつお伝えして、今日の話は終わりにします。
「くれない族」という言葉があります。~してくれないとよく口にする人、そういう考えの強い人を言います。分かってくれない、慰めてくれない、感謝してくれない、かまってくれない・・・挙げ出せばきりがありません。でも、人は期待するほど気づいてくれませんし、自分の思ったようには動いてくれません。そもそも自分も、今自分が他人に求めているように他人のために動いているでしょうか? 何かを求めるなら、どんな小さな一歩でもまずは行動することだと思います。「くれない」族になるな。これが言いたいことのひとつめです。
ふたつめは自由の話です。もっと自由に、と声高に叫ぶ人がいます。主張すること自体は大いに結構なことだと思いますし、ぜひそれをめざして壁を打破してもらいたいと思っています。しかし私は同時に、いつも次のように思っています。「不自由+自己責任」の数値は常に一定であると。自由であるということはその分自己責任が大きくなるということです。責任の部分は他人におっかぶせる、そういう感性の人が大人にも非常に多くいると思います。自由を求めるなら責任もとる腹を持て。それを強く思うのです。
さあ、新しい年度の始まりです。真の意味で主体的な自分を求めて1年を送ってください。特に3年生は進路実現の年です。一人称を主語に自分の道を見定め、行動していただきたいと願います。