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令和7年度 後期始業式 校長挨拶(骨子)
2,3年生には昨年、「違和感を大切に」、「違和感に目をつぶるな」という話をしたことがありますが、かすかにでも記憶に残っているでしょうか。今日はそれにちょっと近い話をしたいと思います。
私は地歴公民科の教員で、多くは日本史を教えてきました。歴史は一般には「勝者」が作ると言われ、「敗者」の言い分や「勝者」にとって都合の悪いことは消されたり、忘れ去られたりします。時代の都合や空気で、取り上げられる内容や評価もしばしば変わります。新たな発見によってそれまでの常識が覆されることもあります。私が高校生だった頃と比較しても、大化の改新しかり、後醍醐天皇や足利尊氏しかり、田沼意次と松平定信しかり、幕末の幕府しかり、大いに様変わりです。
私は生徒たちによく言っていました。「高校を卒業したら張り切って教科書を全部捨てる人がいるが、歴史と国語は特にダイナミックな変わり方をするので、取っておいた方が面白い。自分の子供が高校生くらいになった時見比べてみるといい。たぶんこんなにも自分たちの聞いていた話と違うのかと思うから。」と。また、こんなことも言っていました。「たまに教科書の文章の主語と目的語を逆転させて読んでごらん。全く違う歴史が現れるから。」と。
みなさんはNHKの朝ドラは見ないかもしれませんが、今年上半期の朝ドラ「あんぱん」は、アンパンマンの作者であるやなせたかしさんとその妻暢さん夫婦をモデルとしたお話で、「逆転しない正義」を探すというのが作品のテーマになっていました。
今真実だ、正義だと思っていることも、こうした歴史観同様に、いつ変わるかわかりません。でも、その変化の仕方が妥当だとは思えず、何らかの「違和感」を覚えたら、それはあなたの心が発するアラーム音です。目をつぶらず、少なくとも「行動せずとも同調せず」でいきたいものです。
さて、私は最近「もやもやいらいら」しています。そしてその原因となることに対し何もしないで、こんなところでもっともらしく喋っている自分の不甲斐なさにも「もやもやいらいら」しています。その原因は世の中にある「欺瞞」です。そしてそれを受け入れる社会の空気の変化です。いくつか例を挙げます。これはあくまでも私の感覚であって、皆さんに押し付けるものではありません。異論反論あって当然です。私の話の方に「違和感」を感じるという人もいて当然です。なぜならここには多様な人が集まっているからです。そして多様でいいからです。
いささか古い話から入りますが、2005年のことです。日露戦争の日本海海戦で対決した日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊の乗組員の子孫が、日本海海戦100年にあたって、その海に献花し、日露の末永い平和と友好を誓い合ったということがありました。そのこと自体は心温まる話ですが、そもそも日露戦争は何をめぐる戦争だったのでしょうか? 朝鮮半島や満州の権益や指導権、優越権をめぐる争いだったはずです。教科書には日本の事情、ロシアの事情は書かれています。しかし戦場となったのは満州や朝鮮半島です。当該の国、そこで暮らす人々の話は一向に出てきません。これはどういうことでしょう。その時から私はずっとそう思っていました。最近「誇りを持てる歴史を作ろう」などと主張する人がいます。「作る」とは何事かとまず思います。すべての個人、すべての国、すべての歴史には光と影があります。光だけを切り取って誇ることが正しいのか、影を克服してこその誇りではないのかと私は思うのです。
最近、差別されている人々やマイノリティの人々を守る法律や制度を「逆差別」だと主張する人がいます。そもそも差別があったり守られないから作られた法律、制度なのに、これを否定するということは、差別を是認しマイノリティを見捨てるということではないでしょうか? そうした法律を悪用する人を取り上げていろいろ批判しますが、強者有利の法律を悪用している人もいっぱいいるのではないでしょうか。いくら考えても、私にはレイシスト(差別主義者)の主張にしか思えません。
今世界中で「○○ファースト」ばやりです。ファーストがあるということは、セカンドやサードや、もしかしたら論外まであるかもしれないからどうもいただけないと以前の集会で話しました。日本では最近、外国人に対して、時に不正確な、あるいは虚偽の理由を根拠にして排斥しようとしたり攻撃しようとしたりする動きがあります。しかし、考えてみてください。その対象はもっぱらアジア人だったり、ラテンアメリカやアフリカの人たちではないですか? 欧米人に対してはほとんどベクトルが向けられていません。それっておかしくないですか?
言いたいことはまだまだ山のようにあります。例えばオールドメディアとSNSの問題とか。しかし、きりがないので、今日のところはここで留めておきます。もう一度申し上げますが、絶対的なものはなく、物の見方や評価は変化していきます。そしてその変化はいつも望ましいとはかぎりません。あるいは特定の人にとってのみ望ましいものかもしれません。どうか「違和感」、おかしいと感じたことは胸の内にしっかりと持って流されないようにすること、「真実」や「正義」を追い求めようとすること、自分はどう考えるのか、自分の意思を持つこと、それを大切にしてほしいと願います。世の中の事象について、付和雷同ではなく、あなた自身の「違和感」を持ち、あなた自身の「正義」や「真実」を追い求めてください。